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【ことなら'24春】奈良時代の藤原氏 権力掌握の起源を探る 渡辺晃宏・奈良大学教授に聞く - 源氏物語を巡る旅・奈良

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インタビュー 渡辺晃宏・奈良大学教授

 「源氏物語」の作者、紫式部を主人公にしたNHK大河ドラマ「光る君へ」。平安貴族たちの人間関係が描かれる中で、最も権力を握った藤原道長など当時栄華を誇った「藤原氏」が注目されている。藤原氏の起源をたどると奈良ともゆかりが深い。奈良時代の藤原氏について、渡辺晃宏・奈良大学教授(日本古代史)に話を聞いた。

 

「のちの藤原氏の基礎をつくった点では藤原不比等の功績が大きかった」と語る渡辺晃宏教授

=奈良市山陵町の奈良大学

 

権力掌握する不比等 婚姻で天皇家との関係築く

―藤原氏が注目されています。


 藤原氏の始まりは天皇から姓をもらった飛鳥時代の藤原鎌足(中臣鎌足)ですが、のちの藤原氏の基礎をつくった点では息子の不比等に大きな功績がありました。


 669年に鎌足が亡くなった時点では、不比等はまだそんなに高い地位にあったわけではありません。不比等がどうしてあれだけの権力を持てたのかは、分からない点が多くあります。


 ただ日本の古代国家、律令制を築いていくのに大きな役割を果たしました。律令の編さんに始まり、平城京遷都や日本書紀の編さんに関わりました。女帝の持統天皇からの深い信頼を得て権力の中枢に上っていったのだと思います。

 

―平城京遷都も不比等が主導したといわれます。


 710年の平城京遷都は特に不比等がいなかったらできなかったでしょう。


 不比等の屋敷は平城宮の東に出っ張った部分、東院のすぐ東に置かれました。平城宮に一番近く、宮内よりも標高も高くて水はけの良い場所を占めました。不比等が遷都を主導したのと関連しているのかもしれません。


 藤原氏の氏寺の興福寺も、平城京の東に張り出した外京(げきょう)に建立されますが、一段高い高台に立地します。平城宮を見渡せる場所です。


 興福寺は本来なら平城京の外になるはずですが、外京をつくることで平城京の中に取り組むことに成功しています。おそらく東に出っ張る平城宮東院と平城京外京は連動しているのだと思います。

 

光明皇后が父藤原不比等の邸宅跡に建立した法華寺=奈良市法華寺町

 

―不比等は姻戚関係で天皇家に近づきます。


 697年に持統天皇が退位し、文武天皇が即位すると、不比等は娘の宮子を文武天皇に嫁がせます。そして文武と宮子の間に生まれた首(おびと)皇子(のちの聖武天皇)にも、不比等は娘の光明子を嫁がせます。


 720年に不比等は死去しますが、24年には孫の聖武天皇が即位しました。もう少し長生きしていたら、平安時代に権勢を誇った藤原道長と同じ立場になれたはずです。(藤原氏一族が天皇を支える摂政・関白を独占して国政を運営した)摂関時代とほぼ同じ天皇家との関係が、不比等の頃には築かれつつありました。

 

 

不比等の死後 藤原四家・光明子の時代と長屋王の悲劇

―不比等死後は子どもたちが台頭します。


 律令国家ができるまでのヤマトの王権は、大王家を諸豪族が支える体制が取られ、政権には一つの豪族から一人しか参加しないのが原則でした。それは不比等が活躍する時代も守られましたが、打ち破ったのが不比等の4人の男子たちです。


 本来は長男が氏族を代表しますが、なぜか藤原氏は次男の房前(ふささき)が先に政権に参加します。これは元明天皇が房前を優遇したためだといわれています。


 長男の武智麻呂(むちまろ)は遅れて出世し、さらに三男の宇合(うまかい)、四男の麻呂と、藤原氏は4人が政権に参加するようになっていきます。


 そこで藤原氏にとって邪魔な存在となったのが天武天皇の孫の長屋王でした。もともと長屋王と不比等は協力的な関係にありました。ところが聖武天皇が即位し、長屋王が政権の首班になると、不比等の4人の子どもたちにとっては目の上のたんこぶになりました。


 武智麻呂や宇合らは聖武天皇を抱き込み、無実の罪をなすりつけて長屋王を自殺させます。729年の長屋王の変です。


―不比等の娘たちは。


 不比等との関係で忘れてはならないのが、娘の宮子と光明子です。宮子は首皇子を生んだ後、病でふせました。不比等の屋敷のどこかにいたのでしょうか。続日本紀には737年に病気が回復し、天皇となっていた息子と36年ぶりに面会した記録があります。その後54年まで生き続けますが、その間もどこに住んでいたのかは不明です。


 光明子は701年に生まれ、16年に首皇子の后となりますが、その後も不比等邸で過ごしたと考えられます。16年に第一子となる後の女帝孝謙天皇が誕生しました。18年には男の子が生まれ、すぐに皇太子にしますが1年もたたずに亡くなってしまいました。


 光明子は皇后になった後も平城宮内ではなく、父の不比等邸に住み続けました。不比等の死後はそこを受け継ぎ自身の屋敷となりました。その地に造営されたのが総国分尼寺の法華寺です。

 

光明皇后が父藤原不比等の邸宅跡に建立した法華寺=奈良市法華寺町

 

 

藤原仲麻呂の台頭 道鏡との対立 そして平安遷都へ

―藤原仲麻呂も活躍します。


 長屋王の変後に力を振るった藤原四子ですが、737年に天然痘で相次ぎ亡くなります。そこで皇親に生まれながら臣籍に下った橘諸兄(たちばなのもろえ)が政権を担うようになりました。


 諸兄は年の恭仁京遷都でも発言力が強かったといわれています。藤原氏は影を潜めますが、徐々に藤原四子の子どもたちの位階が上がっていき、特に武智麻呂の子、仲麻呂(恵美押勝)の力が増しました。おばの光明皇后の影響が大きかったといわれます。


 58年に孝謙天皇が退位すると、仲麻呂は近い関係にあった大炊王(おおいおう、淳仁天皇)を即位させて政権中枢に躍り出ます。仲麻呂は官職名を中国風に改め、自身は太保(たいほ、右大臣)、その後は太師(太政大臣)まで上り詰めました。


 ところが光明皇太后が亡くなると、仲麻呂の勢いに陰りが見えます。孝謙太政天皇から寵愛(ちょうあい)を受ける僧道鏡が勢力を強めて対立。年の恵美押勝の乱で軍事力を奪おうとしますが失敗し、捕えられて殺されてしまいます。


 仲麻呂は天皇に取って代わる地位に就こうとすれば就けたと思いますが、律令の枠組みからは出ませんでした。それに対して天皇に代わる存在になろうとして失敗したのが道鏡でした。


―奈良時代も平安時代と同じように権力争いが激しいですね。


 長屋王の変から後は権力闘争が続きました。道鏡政権の後は再び藤原氏の時代となります。房前の系統となる後の北家だけでなく、宇合の系統の式家や麻呂の系統の京家なども政権に参加して活躍します。北家の優位が固まるのは794年の平安京に遷都してから、藤原良房・基経の時代になってからです。


 藤原氏を中心とした権力闘争に加え、天然痘の流行があり、都の遷都があり、東大寺大仏の造立がありと、奈良時代は激動の時代だったのです。

 

 

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