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映えスポット「室生山上公園」(宇陀市)に込めたイスラエル芸術家の想い - 大和酒蔵風物誌・第4回「神仏習合の酒」「raden」(芳村酒造)by侘助(その3)

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人気のインスタ映えスポット 室生山上公園

 公園は17年前と変わらず穏やかな空気に包まれていた。ただ、筆者には、あいかわらずカラヴァンが随所に配置したオブジェは不可解なままだった。鈍い感性は竣工のときのままかわっていない。それに、ピラミッドや塔と呼ばれる構造物に無理やり何か意味を求めると、たちまちしらけてしまいそうな気がした。

 

 ところが、娘たちは、事前に調べてきたのか、公園のあちこちに恰好のスポットをみつけてスマホで写真を撮っている。ここでも、あそこでも、あんなところでも。オブジェのなかに入って、そこから外の風景を撮ったりもしている。シャッターを押す頻度は室生寺のときよりよほど多い。試みに、父もそれについて回りながら彼女たちの真似をして撮ってみる。そんなことを繰り返しているうちにだんたん楽しくなってきて、この公園の面白さがぼんやりとだがわかるような気がした。

 

 我々は、彫刻や構造物に意味を求めるべきではなく、それらが室生のこの山上の風景に美しく溶け込んでいるその様子をただ楽しむだけでいい。鑑賞するのではなく、体感する。写真はそれを自分のために記憶し他者と共有できる最適の手段であり、だからこそ近年この公園はインスタ映えすると人気を得ているのだ。考えてはならない。公園の懐に抱かれてただ感じるだけで、我々はすでにその魅力を十分理解している。

 

螺旋の水路

 

 

公園設計者カラヴァンが室生山上公園に抱いた思惑

 カラヴァンはこの公園の設計者であり監修者である。だが、生前のかれは自分をあくまで彫刻家と呼んだ。それは、自分がただオブジェを制作する彫刻家にすぎないという言葉どおりの意味もあるだろう。それでも、かれは明らかに単なる彫刻家ではない。

 

 もしそうだとすれば、自分の作品を設置する空間としてこれだけ広大な土地を相手にする必要はない。「私の作品はその場所に属しています。また、場所も私の作品に属しています。場所と作品は切り離せないものです」と語るかれにとって、自分がつくるオブジェは、必ずそれが設置される「場所」を必要とする。山上公園のピラミッドや螺旋の水路はそれを受け入れる室生という「場所」があってはじめて創造された。

 

 かれの他の作品、たとえば「パッサージュ」や「大都市軸」なども、つねに特定の土地との関係性のうえに成立している。「入植」。かれがイスラエルの作家だということで敢えてこの言葉を使用するが、かれの創造行為を喩えるなら、自分の作品を特定の「場所」に「入植」させることだといえはしまいか。あるいはこういうこともできる。作品としての彫刻が「彫刻家」としてのかれ自身であり、それを迎え入れるその「場所」がパレスチナの地である、と。


 だからといって、かれの創造行為が現実のパレスチナ問題をなぞっているなどというつもりはない。その作品に込められたメッセージはむしろその真逆の側にある。山上公園制作のコンセプトとしてカラヴァンは述べている。「私にとって最も基本的なことは、現在の敷地の環境を純粋に尊重し、自然に危害を加えるようなことは決して行わず、昔の生活の足跡、棚田や森といった要素も出来る限り再現し、人々にとって懐かしい原風景を象徴的に表現することだ」。カラヴァンは「入植」する。ただし、現実のイスラエルで行われているのとはまったく別の仕方で。

 

太陽の道と天文の塔

 

 それを理解するのに、かれの仕事がすべてどこかの依頼から成立しているのは示唆的である。「パッサージュ」はドイツ政府から、「大都市軸」はフランス大統領から、「山上公園」は室生村から、それぞれ委嘱されて実現したプロジェクトで、作者自身、基本的に自分は頼まれないところでは仕事をしないと明言している。

 

 これは、裏を返せば、望まれない土地でかれの表現は成立し得ないことを意味している。つまり、かれの「入植」は望まれないところではけっして実行されない。かりに望まれたときでも、その「場所」の歴史や環境を最大限尊重し、「入植」する彫刻と周囲の自然が必ず調和しなければならない。そのとき、独りよがりな思惑に満ち、周囲への配慮なしにつくられた彫刻が作品としての意味をなさないのはいうまでもない。もしそれが無造作に「自然に危害を加える」ようにして「場所」を占めるとすれば、それはもはや「入植」ではなく「占領」である。


 「私はこれまでいくつもの戦争を経験してきました。殺し合い、破壊というものをみてきました。ですから、人々の唯一の望みが平和であることが分かるのです。私は戦争を描写しているわけではなく、いくつかの作品を寛容、平和あるいは理解のために捧げています。与えられた仕事のなかには、敷地そのものが私に政治的な声明を用いるよう刺激を与える場合もあります」と述べているように、カラヴァンは、自身の創作活動に政治性が伴うことを隠そうとしなかった。戦争や暴力に対して芸術は無力であることを自覚しながらも、自分の作品から政治的なメッセージが読みとられることを否定しなかった。

 

 今回、実際に山上公園を体感することで、少なくとも筆者は、かれの表現のなかに、イスラエルにあってげんになされているのとは別の「入植」方法があるはずだというその確信をみる思いがした。生前、パレスチナの紛争が起こる度に頭を抱えていたというかれが、イスラエルで今起こっている現実を目の当たりにしたら、はたしてどう思うだろうか。

 

遊歩道からピラミッドの島を望む

 

 

イスラエルとハマスの増幅される憎悪 救いの道はあるのか

 カラヴァンが深い影響を受けたというユダヤ系宗教哲学者マルティン・ブーバー(1878-1965)は、主著『我と汝』のなかで「愛は盲目であるかぎりは、すなわちひとつの存在の全体を見ていないかぎりは、まだ真に関係の根元語のもとにあるのではない。憎悪はしかし、その本性からして盲目なのだ。憎悪され得るのはひとつの存在のただ一部分でしかない」と述べている。

 

 かれは、人間のあいだには「我と汝」と「我とそれ」という二重の関係性があって、相手の存在を単なる経験や利用の対象である「それ」ではなく、「ひとつの存在の全体」である「汝」として受けとめるべきと説いた。たとえ愛していても相手のなかに自分に都合のいい部分しかみていなければ、それは、「我とそれ」の関係性にとどまるが、そこに自分とは相容れない他性までみてなお愛することができれば、「我と汝」の関係になる。まして「その本性からして盲目」である憎しみは、相手を「それ」以上の対象とみることを許さない。

 

 今、憎しみに占有されたイスラエルもハマスも、お互いのことを「それ」としかみていない。相手の存在全体である「汝」ではなく、我が街を破壊し同朋を傷つけ殺害する憎っくき「それ」としか。しかし、げんにそこで生きているのは、イスラエル人にしろパレスチナ人にしろ、全き人間である「汝」以外の何者でもない。


 「ハマスを殲滅する」とネタニヤフ首相はいう。現実にそれが可能でないことは、イスラエル建国から数十年の歴史を振り返れば明らかで、かりに今回ガザを占拠しハマスを一掃したかのような状況をつくりだせたとしても、それはあくまで一次的にすぎず、いずれ第2、第3のハマスが生まれてくるのは必定である。なぜなら、ハマスを一人残らず抹殺することは物理的には可能だとしても、「憎悪」を消去することはできないからだ。

 

 反対に、暴力がエスカレートするにつれて「憎悪」は増幅され、対立する者たちをさらに「盲目」的な「我とそれ」の関係へと縛りつける。対立の発端となったハマスの攻撃は長年の抑圧により増幅されたこの「憎悪」の所産であり、ネタニヤフ首相が「殲滅」を叫ぶのもまたこれに起因する。敵国にいるというだけで人びとを「それ」として攻撃するハマスはけっして許されるべきでないし、そもそも、ネタニヤフ首相の使う「殲滅」という言葉自体、「我とそれ」の関係性から生まれる究極の悪というべきではないか。

 

棚田跡の水が天文の塔の湖を潤す


 娘たちとスマホで写真を撮りながら、イベントは残念ながら中止となってしまったが、こうしてゆったりとこの公園を訪れることができたのは不幸中の幸いだったかもしれないと改めて思い直した。イベントの開会式に出席するだけでは、おそらく、穏やかなこの公園の空気の何が「懐かしい原風景」のようで、そこにカラヴァンのどんな思いが込められているかまで考えなかったろう。単に美しく整備され維持されたイベント会場として受けとめるのがせいぜいだったにちがいない。仕事にも時間にも制約されることなくゆっくりと公園の懐に抱かれたおかげで、そう思うことができた。


 帰りがけに、娘たちに17年前の竣工式のときの話をしたら、「へぇ、ここそんな古いんだ。もっと新しいかと思ってた」という。彼女らからすると、公園が自分の生まれる前からあったことに違和感を覚えるほど新しくみえたようだ。確かに、直前に訪ねた歴史ある室生寺との対比からすれば新しいかもしれないが、理由はそれだけではないだろう。

 

 ブーバーは、「我とそれ」の関係はすべて「過去」にあり、「我と汝」の関係は「現在」にあると説いた。察するに、この山奥に「入植」してきたオブジェたちが周りの自然と美しい調和をなしているのは、それらが「我と汝」の関係性で結ばれているからではないか。

 

 つまり、カラヴァンの彫刻たちは、室生山上のこの自然を「ひとつの存在の全体」として接している。この「場所」に対するカラヴァンの敬意が生んだ特異な関係性である。そして、「我と汝」がなすこの調和の向こうからいつも「寛容」「平和」「理解」という古くて新しい問いかけがなされているからこそ、そこを訪れる者たちはつねに「現在」を感じていられるのではないか。その穏やかな佇まいに変わらぬ新しさが感じられるとすれば、理由はそれをおいて他にない。かれの作品は国内にまだいくつかあるという。機会をつくって、できればまた娘たちと一緒に訪れたいと思っている。(その4に続く)

 

参考文献:「ダニ・カラヴァン 遠い時の声を聴く」酒井忠康著(未知谷)

     「我と汝・対話」マルティン・ブーバー著(みすず書房)

 

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