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奈良公園(奈良市)の料理旅館で文人ゆかりの酒を味わう(その2) - 大和酒蔵風物誌・第2回「江戸三から山乃かみへ」(奈良豊澤酒造)by侘助

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奈良逗留が小林秀雄に残したもの

 うがった見方をすれば、志賀からファンレターの返事が届いたからというのは、だから、表向きの理由で、小林からすれば、本当は泰子との生活から逃れられればどこでもよかったのではないか。志賀からの便りは渡りに船で、だからこそ、それだけのことでわざわざ遥々関西まで確たる当てもなく文豪を訪ねたのではなかったか。小林の奈良来訪に何か唐突感のようなものがあるのはそのせいだ。あくまでも想像にすぎない。だが、そう考えると、奈良でのかれの荒れた生活の背景がみえてくるような気がしてならない。友人から略奪するほど愛した女とはうまくいかない、学校は出たものの風太郎で、ありあまる自分の才能を世の中は認めようとしない。おまけに金もない。

 

小林秀雄が下宿した離れ

 

 現在、江戸三にはその小林が下宿した当の離れが残っている。他の離れに比べるとかなりこじんまりとした佇まいで、大和社長によれば、小林は、よくこの離れの縁側に座って、ちょうど正面にみえる奈良ホテルの建物をぼおっと眺めていたそうだ。「今は家などが建っていますが、当時は今よりもっとよくみえたはずです」と大和社長。確かに、今でも木々の向こうにその美しい屋根が横に長くみえるから、当時はもっとはっきりみえたことだろう。傷心と不安と焦燥、そしてときに怒りにさいなまれたこの文学青年に、当時関西の迎賓館と呼ばれた奈良ホテルの、日本近代建築の粋を集めたその建物は、あまりに眩しかったにちがいない。

 

小林の離れの縁側付近から望む奈良ホテル

 

 半年あまり奈良に逗留した後、昭和4年1月、小林は、下宿代を志賀に建て替えさせて帰京することになるが、結局、泰子とは二度と暮らすことはなかった。「様々なる意匠」が「改造」の懸賞論文で2等を取って、いよいよ文壇にデビューするのがその年の9月である。文壇に衝撃を与えたこの評論は、まるで時代劇のように、当時幅を効かせていた様々なイデオロギーをバッタバッタと切り倒す痛快な作品である。その論調には、文章、思想、知識、観察眼すべてにおいて過剰ともいえる自負心が見え隠れしている。それは、まるでそれまでの鬱屈した思いを正のエネルギーに変えて爆発させたかのようだ。そして、一躍文壇の寵児となった小林は、その後堰を切ったかのように、「私小説論」や「ドストエフスキーの生活」、「モーツアルト」、「無常といふこと」など数々の傑作を生み続け、ともすると内向きになる文壇に刺激を与え続けた。

 

 後年、小林は30歳で早逝した中也との思い出を振り返って、こんな文章を残している。「それ(泰子略奪事件)から八年が経っていた。二人(小林と中也)とも、二人の過去とは何んの係はりもない女と結婚してゐた。忘れたい過去を具合よく忘れる為、めいめい勝手な努力を払って来た結果である。」(「中原中也との思ひ出」)

 

 奈良での生活が東京での荒んだ体験の延長だったのだとすれば、なるほどそれは「忘れたい過去」になるのかもしれない。だから、小林本人は、大和社長がいうように、奈良のことを語りたがらなかったのかもしれない。ただ、奈良での限りなく鬱屈したマイナスのエネルギーが大きかったからこそ、それが好転したときに、今度は限りなく強力なプラスのエネルギーに変換されたのではなかったか。「様々なる意匠」から放たれる、ときに毒を含んだ鋭い批評意識は、少なくとも順当なキャリアを積んだだけの優等生には無縁のようにみえる。奈良での荒れた生活があったからこそ、そしてそんななかでも志賀や周りのひとたちからの好意があったからこそ、小林の文章は爆発的な表現力を備えることができた。かれにとって江戸三を囲む奥深い緑は、その意味で、きっと創作の大いなる糧になったにちがいない。社長のお話を伺いながら、勝手にそう確信するのだった。

 

 

日本酒「江戸三」にこめた主張

 肝心のお酒の「江戸三」に話を戻そう。大和社長が学校を出てまもなく三代目のお父さんが亡くなって、まだ若くして四代目を継ぐことになった。「確か23歳くらいの頃です。社長になってすぐオリジナルのお酒の必要を感じました。日本酒は浮き沈みが激しいので、それが料理を味わうのに影響すると具合が悪いと思ったのです。それで、できるだけ料理に合うお酒を安定してお客様に提供する方法はないか、と考えて県内のある酒蔵に相談したら、自分好みのお酒を造って下さることになりました」。筆者が実際に味わって感じたように、そのとき一番優先させたのが、「自己主張するのではなく、あくまで料理を引き立てる」お酒だったそう。その思いが蔵元に通じたのか、その蔵で最も上等のお酒が「江戸三」となった。

 

江戸三の大和隆四代目社長

 

 ところが途中その酒蔵が廃業することになって、他で造ってくれるところを探したら、これを奈良豊澤酒造が引き受けてくれた。15年程前の話である。豊澤酒造の酒造りのコンセプトは、後で述べるように、大和社長のそれと似ている。以来、「江戸三」は二代目になっても多くのお客さんから愛され続けている。「このお酒は本当に評判が良くて、一般では販売していないものですから、お客さんのなかにはわざわざうちで買って帰る方も多いんです。最近は海外の方も増えて好んで呑んで下さっています。実際に呑んで頂いたら、うちの料理をいっそう美味しく引き立ててくれるのがよくわかります。とくに刺身なんかとはとても相性が良くて。」と大和社長は力を込める。主張なき主張。確かに、自分を殺して相手を生かす、何という奥ゆかしさだろうか。存在を隠すがゆえに、いっそうその存在感が際立つ、「江戸三」のこの逆説的な魅力は、あたかも小林秀雄が作品内で多用するあの逆説的な比喩表現にようにカッコよく響く。

 

江戸三の刺身と「江戸三」と

 

 

蔵元「奈良豊澤酒造」を訪ねて

 そんな話を聞いたら、「江戸三」を造っている当の蔵元、奈良豊澤酒造に向かわないわけにはいかない。こちらは日を変えて、奈良市の南、ちょうど郡山と天理との境目辺りにある蔵を訪ねた。東に少し行くと安産祈願で有名な帯解寺がある。迎えて下さったのは豊澤孝彦氏。8年前に五代目となった若き蔵元である。五代目はまず蔵の来歴を奈良の酒造業界の歴史とともに教えて下さった。「以前は奈良には60軒近くの酒蔵がありましたが、そのほとんどが大手の酒造メーカーに自分のところで造ったお酒を納める「桶売り」という業態を取っていました。下請けみたいなものですね。造り酒屋といっても、ですから、今の地酒みたいなものはなかったんですね。お酒といえば大手メーカーのほぼ独占でした。そんななか、父である先代の四代目安男は、どんどん豊かになっていく時代に応じて、本当に良いお酒を独自に造ることを思い立ちました。それまでは醸造アルコールを大量に使用したお酒が広く出回っていましたが、四代目は米と麹だけから造る純米酒造りに取り組むことを決心したのです」。

 

奈良豊澤酒造

 

 できるだけ多くの方々に良質のお酒を楽しんでもらいたいという四代目の思いは、品質が高くしかも価格を抑えた純米酒「黒松貴仙寿」として結実した。造り酒屋にとっては今では当たり前となっている自社ブランドの先駆けといっていい。市場もこれを求めていたのだろう、「貴仙寿」は大当たりし、その後の蔵の方向性を決定づけた。折しも、日本酒の消費量は昭和48年をピークに低下の一途をたどるようになり、しかも大手メーカーは生産現場を機械化して、「桶売り」に頼らなくても自社だけで酒造りができるようになった。昔ながらの生産方法に依存していた酒蔵は次第に経営が逼迫し、やがて一軒、また一軒と廃業を強いられることになる。(その3につづく)

 

 

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